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特集
ラップ界のスター「2PACKよ永遠に」


Tupac Amaru Shakur
1971 − 1996

2PacことTupac Amaru Shakur(トゥーパック・アマル・シャクール)は、1971年6月16日ニューヨークブルックリンに生まれる。Tupac Amaruとはインカ語で「光輝く大蛇(龍)」を意味し、Shakurはアラビア語で「神に感謝する」という意味を持つ。彼の母であるアリス・フェイ・ウィリアムス(旧姓)は、21歳の頃、ブラックパンサー党に入り、同じ党員のムトゥル・シャクールと結婚し、新しいペルソナを獲得して、Afeni Shakur(アフェニ・シャクール)として生まれ変わり、本格的にブラックパンサー党員として活動を始める。1969年の4月、20人のニューヨーク・パンサーズの党員と共に、ニューヨーク市内の公共の場所の爆破謀議を含む複数の容疑で逮捕された。25ヶ月にも渡る裁判の中、仮釈放中のアフェニは、ヤクザ者のレッグスと同じ党員のビリーという二人の男性と関係を持つ。その後自身の妊娠に気づくが、お腹の子(トゥーパック)の父親は判らないまま、中絶をすることなく、留置所に収監されていた。そして1971年5月、アフェニと13人の仲間は無罪放免となり、翌6月に男子(2Pac)を出産する。赤ん坊を抱えたアフェニはニューヨークのブロンクスに居を構えた。しかし、2年後妹のセキワが生まれた時には、すでに生活は苦しくなっていた。セキワの父親でアフェニの夫ムトゥルはやがて60年の禁固刑を言い渡される武装強盗へと繋がる道をひた走っていて、家族を支えるどころの話ではなかった。トゥーパックの名づけ親であったパンサー・ジェロニモ・プラットも刑に服していて力になれなかった。唯一、家族の身近にいた男性がアフェニの愛人レッグスで、レッグスはハーレムの麻薬の元締めニッキー・バーンズとの付き合いもあったと噂されている人物だった。そんな中でも、トゥーパックはアフェニにより厳しく育てられた。しかし、アフェニの収入では日常用品でさえ贅沢と思えるありさまだった。この家庭に存在した数少ない贅沢は、たとえば、アフェニが図書館から持ち帰ってくるゴッホの[星夜月]の複製画などで、そうした絵は少年トゥーパックの関心を何時間でも惹くものだった。(彼の詩集でもゴッホに捧げた印象的な詩がある)あるいはアフェニがトゥーパックをハーレムの劇団に入団させたのもトゥーパックにとって、かけがえのない逃げ場になった。しかし、アフェニはやがて仕事にもあぶれ、頼みのレッグスもカード詐欺事件で刑務所に送られた。生活保護を受けながら、一家は住む場所を転々とし、ホームレス用の宿泊所の世話になることさえあった。やがて一家は、電算機処理の仕事を紹介してくれるという親類のつてを頼ってボストンへ流れ着く。





ボストンへ着くとアフェニは刑務所にいるレッグスに電話を入れるが、レッグスがクラックの後遺症による心臓発作によって41歳で他界したことを知らされた。人生をどう生きるべきかを教えてくれるはずの父親なんて一人もいやしないと嘆く息子に対してのせめてもの配慮は、アフェニの努力で実現した、舞台芸術の名門校、ボルティモア・スクール・オブ・アーツへの入学許可だった。ここでトゥーパックはいくつかの制作物で主演をとるようになり、またラップに本格的に取り組むようにもなった。既に自分の身の回りのものを詩という形で書き残すようになっていたトゥーパックにとって、ラップは自分の人生経験を綴る日記のような意味を持つようになった。しかし、高校課程の二年目が終わろうとする頃、近所の男の子がギャング抗争の末の撃ち合いで絶命するという事件が起きると、子供たちの身の安全を考えたアフェニは夏休みをサンフランシスコ郊外のマリン郡で過ごすように、友人宅へ兄妹を預けることにした。間もなくしてアフェニはその友人がアル中リハビリ・センターへ入院したと知り、自分もマリン郡へ向かった。アフェニが現地に着いてみてわかったのは、平穏な郊外の住宅地だろうと考えていたその地域が、マリン・シティと呼ばれる荒んだゲットーだということだった。そしてアフェニも程なくしてクラック中毒に陥ってしまったのである。この悪癖を17歳になった息子の目から隠すようにはしたが、自分を虜にしたこの災いを振り払う意志を奮いたたせることもできなくなってしまっていた。そんな中、口論の末にトゥーパックは家を出て、借り主のいないアパートを不法占拠する少年の一団に加わった。自活しながら学校は丘を越えて、収入の豊かな子弟が多く集まるマウント・タマルパイ高校へ通った。そして、トゥーパックはクラックの密売に手を染め始めた。すっかり薬に蝕まれたアフェニが薬を買っているのを数人の友人が目撃したと聞いて、すぐにその道からは足を洗い「自分の頭の中から極力おふくろのことをかき消すようにした」とのちに語っている。ぎりぎりの生活を堪え忍びながら、さまざまな職を転々とし、何よりもトゥーパックを熱中させたのはラップだった。





学校を辞め、一時ロサンジェルスに移ったトゥーパックはマリン・シティに舞い戻り、そこでパフォーマンス・アーティストのレイラ・スタインバーグという白人の女性と同棲を始める。そのレイラが、オークランドを根城にするラップ・グループ、“デジタル・アンダーグラウンド=DU”のマネージャー、アトロン・グレゴリーに連絡をとり、その取り計らいにより、荷物持ちのローディという振り出しからトゥーパックのキャリアが始まった。ほどなくしてトゥーパックはバンドのステージで踊りをとるようになり、遂にはマイクをもぎ取ったのだった。瞬間的に客は彼に注目し、そのマイクさばきに皆が虜になっていった。彼の独特の存在感とラップの詩に込められた彼の内なる声が共鳴を呼び、いつしか彼のラッパーとしてのキャリアが大きく確立されてきた。その反面に彼は度々かんしゃくを起こす爆弾みたいな存在でもあった。そういった2面性は誰しもが持っているもので、その狭間で常に自分は自問自答していると詩集の中でも記している作品がある。ロサンジェルスの主流はギャングスタ・ラップであり、そのメッカとして花開いていた。90年にはギャングスタの主要人物、つまり、ドクター・ドレイ、スヌープ・ドギー・ドッグ、イージーE、アイス・キューブ、アイスTなどがほとんどロサンジェルスに勢揃いしていた。ギャングスタの作り手の多くが実は、善良でちゃんと親も揃ったしっかりした家庭の出身であったにもかかわらず、ギャングスタは売れまくった。同じDUのラッパーのマネーBが映画「Juice−ジュース」のオーディションを受けることを聞き、その脚本を読んだトゥーパックは自分にとってこんなの役は朝飯前だよと自慢げに語る通り、彼のダイナミック、大胆、力強さ、惹きつけるような演技はプロデューサーの目を釘付けにした。一方、ロサンジェルスではグレゴリーがインタースコープ・レコードとの契約をまとめていた。その成果となったファースト[2パカリプス・ナウ]は50万枚のセールスを上げ、[ジュース]の公開が打ち切られても[2パカリプス・ナウ]は売れ続け、トゥーパック人気に突然、火が点いたのだ。そこに目をつけたのがマリオン・シュグ・ナイトだった。身長190センチ、体重150キロのこの男はさまざまな顔を持つ人物だった。元ギャングの取り巻き、元NFLのロサンジェルス・ラムズのリザーヴ選手、そして、この時点では驚異のヒット街道を飛ばすデス・ロウ・レコードの社長であった。シュグはあらゆる場面でトゥーパックに移籍の交渉をしていたが、自分をここまでの地位になるきっかけを与えてくれた仲間たちを裏切ることはしなかった。


ある日のこと、最初の事件は[2パカリプス・ナウ]のリリース直後、オークランドで起きた。信号無視で切符を切られ、警官に噛みついたところ、血だらけにされ拘置された。その三ヶ月後、テキサスの州警察官が19歳の黒人の車の窃盗犯、レイ・ハワードを職務質問した際に逆に射殺されるという事件が起きると、トゥーパックの歌詞がその殺人のきっかけになったと糾弾された。賠償総額数百万ドルにも及ぶ訴訟は結局、却下されたが、クエール副大統領はトゥーパックの音楽など「わたしたちの社会で温存させられる余地などまったくない」とまで公の場で言い切った。93年の10月、さらに問題が起こった。ショーがハネてアトランタのホテルに戻る途中、白人二人が黒人にちょっかいを出している現場に出くわしたのだ。 トゥーパックが仲裁に入ると、非番の警官だった二人の白人兄弟は銃を抜き、トゥーパックも自分の銃を抜くと瞬時に三発発砲し、二人に傷を負わせてしまった。その二週間後、トゥーパックは、紹介されたとある19歳の女の子をスタッフと一緒に何度も強姦し、異常性行為も強要したという容疑で逮捕された。手錠をかけられたトゥーパックは駆けつけた報道陣にこう語った。「俺は若い黒人で、金もがっちり稼いでるんだ。誰が裏で何を仕組んだって俺を無様に見せることなんてできやしねぇんだ」。そんな彼のセリフの中には世の全ての歪んだ仕組みを悟っているものにも思えた。94年の11月になると強姦事件の公判が始まった。陪審の結果が出る晩、今では四十人もの親類縁者を支えなければならなくなったトゥーパックは、客演でギャラ七千ドルの話があるとポケベルで知るとニューヨークにあるそのスタジオに向かった。ドアが開くと、二階の踊り場から聞こえた声は、東海岸のラッパー、ノートリアスBIG(ビギー・スモールズ)の付き人の声で、トゥーパックは安心した。ビギーも、ビギーのレーベル・オーナー、ショーン・パフィ・コムズも知り合いだったからだ。トゥーパックはエレベーターのボタンを押した。そこへ突然、二人の黒人男性が乗り込んで、自動小銃をトゥーパック一行につきつけた。親友ランディ・ストレッチ・ウォーカーを含むトゥーパックの連れはみな床に飛び伏せたが、トゥーパックは凍ったままだった。「ばか野郎、死にやがれ」と暴漢の一人がトゥーパックのダイヤの指輪とゴールド・チェーンをもぎとった。それから破裂音と閃光が走り、さらに四発続き、銃弾はトゥーパックの頭、手、睾丸に当たった。翌日、見舞いに駆けつけたアフェニは幸い、傷が軽かったことを知らされた。その日、陪審の判決が伝えられ、トゥーパックは陵辱、強姦、武器の所有については無罪放免、「同意のない性的な接触」については有罪となった。刑期については判事の裁量を待たなければならなかった。判事の考えはいささか違っていて、トゥーパックの「傲慢さ」を矯正するためにも四年半の刑期をニューヨーク州ダネモラにある最も厳重な施設で服すように言い渡した。弁護側は上訴し、保釈金百三十万ドルを何とかして工面しようと奔走した。新作[ミー・アゲインスト・ザ・ワールド]はリリースされた直後にチャートの1位に輝いたが、印税の戻りは遅かった。まずは、経費と法律面での費用を相殺していかなければならないためトゥーパックはしばらく刑務所で我慢しなければならなくなった。


刑務所では看守によく小突き回されたが、ブラックパンサーと深く関わっている家系の噂が広まるにつれ、囚人受けはよくなった。ヤキを入れられる心配もなくなると、トゥーパックは日常を詩の執筆と、ルネッサンス期のイタリアの思想家マキャヴェリの研究に費やした。シュグにとってトゥーパック獲得に今ほど絶好な機会はなかった。年間収益が一億ドルにも及ぶデス・ロウを切り回すシュグはこの頃、レーベル・オーナーとしての絶頂期を迎えつつあった。刑務所を訪れたシュグは、デス・ロウとは「ファミリー」なのであり、自分は「親父」として「家族」の面倒をきっちり見ていると説明した。何なら自分が保釈金の面倒をみよう。トゥーパックにやってもらいたいのは、自分たちの一員になってほしいだけだ。「おふくろに家を買いたいんだ」とトゥーパックが切り出すと、わかったとだけシュグは答えた。そこで、シュグの弁護士が3ページに及ぶ契約書を取り出した。トゥーパックは契約書に一瞥くれてから署名した。その苦闘の時代からずっと彼を応援し続けてきた多くの人々にとって、トゥーパックのデス・ロウへの移籍は終末への第一歩だった。「俺たちは彼が魂を売ったとしか思えなかったよ」トゥーパックと家族ぐるみの付き合いのあった友人は言う。トゥーパックも当然ながらシュグの悪い噂をよく知っていた。「でも、彼は言ったんだ、面会室のガラスの向こうで、“俺は何が何でもここから出てやらなきゃならねぇことがあるんだよ”って。そう言われちまったらさ、もう一体何が言ってやれる?」トゥーパックが撃たれた日から考えて一年と一日後、クィーンズの路地でかつての親友ストレッチが処刑されたように射殺されていたからだ。そして、この事件と、ソウル・トレイン賞授賞式で、シュグの取り巻きとパフィの取り巻きがそれぞれに発砲事件を起こしたことから、初めてメディアでも東海岸と西海岸の「ヒップホップ東西抗争」が取り沙汰されるようになった。


96年の春を迎え、トゥーパックにとって最大のヒットとなった[オール・アイズ・オン・ミー]がリリースされた頃になると、トゥーパックは明らかに消耗しきっていた。トゥーパックがデス・ロウに負った借金は四百五十万ドルにも及んでいた。シュグが提供した資金や資産にしても、保釈金も含めてすべて、結局はトゥーパックの口座への貸し付けとなっていた。街の噂ではさらに数百万ドルがマフィアに流れているということだった。実際契約して間もなく「自分の気持ちの上ではデス・ロウは単なる途中の経由地に過ぎず、本当の目的は自分の会社[ユーサネイジア]を設立することにある」と事ある毎に口にしている。トゥーパックの事業は、貧しい子供たちを援助する基金の設立をはじめ、映画出演や、音楽とは無関係のプロジェクトをもっと増やすこと、さらに政治活動への進出までがその視野の中に置かれていた。公ではトゥーパックはシュグに忠実な顔を装った。「俺は戦士なんだ」と言いきり、自分が「若頭」でシュグが「頭領」なんだとさえ説明した。「シュグと俺はいつまでもビジネスを続けるだろう」と。その三日後、ワーナーへの移籍の感触を探り始めた。






その数日後、トゥーパックはMTVミュージック・アウォーズ賞授賞式に出席するためシュグとニューヨークへ向かった。トゥーパックがロサンジェルスに戻ったのは9月7日だったが、この頃からトゥーパックと同居し始めていたクインシー・ジョーンズの愛娘、キダダはすぐにトゥーパックの神経が異常に張りつめているのを察した。その晩ラスヴェガスのMGMグランドで、マイク・タイソンとブルース・セルドンが対戦するヘヴィー級タイトル戦があって、何週間か前にシュグと一緒に観に行くと約束したんだと言った。あまり気乗りがしないんだが、約束してしまったからにはしょうがない。ラスヴェガスの目抜き通り、ザ・ストリップにそびえるホテル、ルクソールに着くとトゥーパックは試合のあとすぐに戻ってくるからとキダダに言い残して、シュグと合流し、大柄な取り巻きばかりを侍らせてMGMグランドへ車で目指した。試合はすぐに決着がつき、一行が会場を出る時、一悶着始まったのであるシュグと付き合いの深いブラッズの対抗ギャングであるクリップスの一員だったとのちに断定された若い黒人男性がトゥーパックにつっかかってきて、それがきっかけでもみ合いになったのだ。最終的にその男はシュグの取り巻きによって取り押さえられ、騒動はひと段落した。トゥーパックがルクソールに戻ると、目が血走っていた。着替えを済ませると、トゥーパックはすかさずでかけた。ロビーで待っていたシュグと合流すると、二人はシュグの家に行き、11時くらいにシュグの経営する“クラブ662”に向かった。シュグは黒塗りのBMW750の運転手席に乗り、トゥーパックは助手席に座って窓を開けた。車の隊列を率いてザ・ストリップを走るBMWの姿をとあるスチール・カメラマンが捕らえたが、長いまつげをしたトゥーパックの目にはまったく精気が宿っていないかのようだった。二人を乗せた車はザ・ストリップと開発が進んでいない地域との境界となる、暗い街角で信号待ちをした。カリフォルニア州のナンバー・プレートをつけた白いキャデラックが助手席側にゆっくりと近づき、拳銃が突き出されると、男が姿を現し、いきなり発砲した。即座に反応したトゥーパックは必死に仲間のいる後部座席に隠れようとした。発砲は13発に及び、1発がトゥーパックの手に命中し、もう1発が骨盤に命中、そして2発が胸を貫通した。現場にはタイヤのきしむ音と、40口径から発射された空の薬莢以外何も残らなかった。緊急治療室に運びこまれながら、トゥーパックは「俺は死ぬんだな」とつぶやいた。その後、トゥーパックは痙攣を起こし、そのまま昏睡状態に陥った。母アフェニは息子の臨終に立ち会った。医者に楽にしてやってくださいと言い渡したのもアフェニだった。1996年9月13日に2Pacことトゥーパック・アマル・シャクールは息を引き取った。短くも激しかった彼の25年間の人生は終わりを遂げた。遺体は火葬にし、ロサンジェルスで平穏な地域の丘にアフェニは灰を蒔いた。この銃撃事件から6年が経った今でも、犯人やその背景にはいろんな噂が流れている。トゥーパックの死から半年後同じようにこの世を去ったBiggyことNotorious B.I.G.(ノートリアスBIG)が当初殺害を企てたギャング団サウスサイトに拳銃と報酬を支払っていたとか、シュグが関わるギャング団との闘争の報復説など様々で、未だ真相はあきらかにされていない。

◆ the unofficial 2Pac Website Japan ◆by PPG "Paw Pads"のリアルストーリーから抜粋アレンジ




題名:「コンクリートに咲いたバラ」
著者:トゥパック・アマル・シャクール
訳:小野木博子
出版社:河出書房新社



彼の自叙伝的な詩で、この詩集のタイトルにもなった詩を最後に読んでほしい。(この詩集は彼の直筆がそのまま印刷されたリアルな詩集で、所々にイラストの描かれているので、彼の新たな一面にも遭遇できる。是非本当に読んで、感じてほしい)





コンクリートに咲いたバラ
-自叙伝的-

コンクリートの裂け目に咲いたバラのことを

聞いたことがあるだろうか

自然の法則に反し

足などあるわけもないのに歩き始めた

おかしなことさ だけど夢見ることを忘れなかったから

新鮮な空気を吸うことも覚えた

生き続けてほしい コンクリートに咲いたバラよ

誰も気にかけてくれなくても!




彼ほどのアーティストは、今までもそしてこれからも彼一人だろう。2PACよ永遠に…。



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