学校を辞め、一時ロサンジェルスに移ったトゥーパックはマリン・シティに舞い戻り、そこでパフォーマンス・アーティストのレイラ・スタインバーグという白人の女性と同棲を始める。そのレイラが、オークランドを根城にするラップ・グループ、“デジタル・アンダーグラウンド=DU”のマネージャー、アトロン・グレゴリーに連絡をとり、その取り計らいにより、荷物持ちのローディという振り出しからトゥーパックのキャリアが始まった。ほどなくしてトゥーパックはバンドのステージで踊りをとるようになり、遂にはマイクをもぎ取ったのだった。瞬間的に客は彼に注目し、そのマイクさばきに皆が虜になっていった。彼の独特の存在感とラップの詩に込められた彼の内なる声が共鳴を呼び、いつしか彼のラッパーとしてのキャリアが大きく確立されてきた。その反面に彼は度々かんしゃくを起こす爆弾みたいな存在でもあった。そういった2面性は誰しもが持っているもので、その狭間で常に自分は自問自答していると詩集の中でも記している作品がある。ロサンジェルスの主流はギャングスタ・ラップであり、そのメッカとして花開いていた。90年にはギャングスタの主要人物、つまり、ドクター・ドレイ、スヌープ・ドギー・ドッグ、イージーE、アイス・キューブ、アイスTなどがほとんどロサンジェルスに勢揃いしていた。ギャングスタの作り手の多くが実は、善良でちゃんと親も揃ったしっかりした家庭の出身であったにもかかわらず、ギャングスタは売れまくった。同じDUのラッパーのマネーBが映画「Juice−ジュース」のオーディションを受けることを聞き、その脚本を読んだトゥーパックは自分にとってこんなの役は朝飯前だよと自慢げに語る通り、彼のダイナミック、大胆、力強さ、惹きつけるような演技はプロデューサーの目を釘付けにした。一方、ロサンジェルスではグレゴリーがインタースコープ・レコードとの契約をまとめていた。その成果となったファースト[2パカリプス・ナウ]は50万枚のセールスを上げ、[ジュース]の公開が打ち切られても[2パカリプス・ナウ]は売れ続け、トゥーパック人気に突然、火が点いたのだ。そこに目をつけたのがマリオン・シュグ・ナイトだった。身長190センチ、体重150キロのこの男はさまざまな顔を持つ人物だった。元ギャングの取り巻き、元NFLのロサンジェルス・ラムズのリザーヴ選手、そして、この時点では驚異のヒット街道を飛ばすデス・ロウ・レコードの社長であった。シュグはあらゆる場面でトゥーパックに移籍の交渉をしていたが、自分をここまでの地位になるきっかけを与えてくれた仲間たちを裏切ることはしなかった。
ある日のこと、最初の事件は[2パカリプス・ナウ]のリリース直後、オークランドで起きた。信号無視で切符を切られ、警官に噛みついたところ、血だらけにされ拘置された。その三ヶ月後、テキサスの州警察官が19歳の黒人の車の窃盗犯、レイ・ハワードを職務質問した際に逆に射殺されるという事件が起きると、トゥーパックの歌詞がその殺人のきっかけになったと糾弾された。賠償総額数百万ドルにも及ぶ訴訟は結局、却下されたが、クエール副大統領はトゥーパックの音楽など「わたしたちの社会で温存させられる余地などまったくない」とまで公の場で言い切った。93年の10月、さらに問題が起こった。ショーがハネてアトランタのホテルに戻る途中、白人二人が黒人にちょっかいを出している現場に出くわしたのだ。 トゥーパックが仲裁に入ると、非番の警官だった二人の白人兄弟は銃を抜き、トゥーパックも自分の銃を抜くと瞬時に三発発砲し、二人に傷を負わせてしまった。その二週間後、トゥーパックは、紹介されたとある19歳の女の子をスタッフと一緒に何度も強姦し、異常性行為も強要したという容疑で逮捕された。手錠をかけられたトゥーパックは駆けつけた報道陣にこう語った。「俺は若い黒人で、金もがっちり稼いでるんだ。誰が裏で何を仕組んだって俺を無様に見せることなんてできやしねぇんだ」。そんな彼のセリフの中には世の全ての歪んだ仕組みを悟っているものにも思えた。94年の11月になると強姦事件の公判が始まった。陪審の結果が出る晩、今では四十人もの親類縁者を支えなければならなくなったトゥーパックは、客演でギャラ七千ドルの話があるとポケベルで知るとニューヨークにあるそのスタジオに向かった。ドアが開くと、二階の踊り場から聞こえた声は、東海岸のラッパー、ノートリアスBIG(ビギー・スモールズ)の付き人の声で、トゥーパックは安心した。ビギーも、ビギーのレーベル・オーナー、ショーン・パフィ・コムズも知り合いだったからだ。トゥーパックはエレベーターのボタンを押した。そこへ突然、二人の黒人男性が乗り込んで、自動小銃をトゥーパック一行につきつけた。親友ランディ・ストレッチ・ウォーカーを含むトゥーパックの連れはみな床に飛び伏せたが、トゥーパックは凍ったままだった。「ばか野郎、死にやがれ」と暴漢の一人がトゥーパックのダイヤの指輪とゴールド・チェーンをもぎとった。それから破裂音と閃光が走り、さらに四発続き、銃弾はトゥーパックの頭、手、睾丸に当たった。翌日、見舞いに駆けつけたアフェニは幸い、傷が軽かったことを知らされた。その日、陪審の判決が伝えられ、トゥーパックは陵辱、強姦、武器の所有については無罪放免、「同意のない性的な接触」については有罪となった。刑期については判事の裁量を待たなければならなかった。判事の考えはいささか違っていて、トゥーパックの「傲慢さ」を矯正するためにも四年半の刑期をニューヨーク州ダネモラにある最も厳重な施設で服すように言い渡した。弁護側は上訴し、保釈金百三十万ドルを何とかして工面しようと奔走した。新作[ミー・アゲインスト・ザ・ワールド]はリリースされた直後にチャートの1位に輝いたが、印税の戻りは遅かった。まずは、経費と法律面での費用を相殺していかなければならないためトゥーパックはしばらく刑務所で我慢しなければならなくなった。
刑務所では看守によく小突き回されたが、ブラックパンサーと深く関わっている家系の噂が広まるにつれ、囚人受けはよくなった。ヤキを入れられる心配もなくなると、トゥーパックは日常を詩の執筆と、ルネッサンス期のイタリアの思想家マキャヴェリの研究に費やした。シュグにとってトゥーパック獲得に今ほど絶好な機会はなかった。年間収益が一億ドルにも及ぶデス・ロウを切り回すシュグはこの頃、レーベル・オーナーとしての絶頂期を迎えつつあった。刑務所を訪れたシュグは、デス・ロウとは「ファミリー」なのであり、自分は「親父」として「家族」の面倒をきっちり見ていると説明した。何なら自分が保釈金の面倒をみよう。トゥーパックにやってもらいたいのは、自分たちの一員になってほしいだけだ。「おふくろに家を買いたいんだ」とトゥーパックが切り出すと、わかったとだけシュグは答えた。そこで、シュグの弁護士が3ページに及ぶ契約書を取り出した。トゥーパックは契約書に一瞥くれてから署名した。その苦闘の時代からずっと彼を応援し続けてきた多くの人々にとって、トゥーパックのデス・ロウへの移籍は終末への第一歩だった。「俺たちは彼が魂を売ったとしか思えなかったよ」トゥーパックと家族ぐるみの付き合いのあった友人は言う。トゥーパックも当然ながらシュグの悪い噂をよく知っていた。「でも、彼は言ったんだ、面会室のガラスの向こうで、“俺は何が何でもここから出てやらなきゃならねぇことがあるんだよ”って。そう言われちまったらさ、もう一体何が言ってやれる?」トゥーパックが撃たれた日から考えて一年と一日後、クィーンズの路地でかつての親友ストレッチが処刑されたように射殺されていたからだ。そして、この事件と、ソウル・トレイン賞授賞式で、シュグの取り巻きとパフィの取り巻きがそれぞれに発砲事件を起こしたことから、初めてメディアでも東海岸と西海岸の「ヒップホップ東西抗争」が取り沙汰されるようになった。
96年の春を迎え、トゥーパックにとって最大のヒットとなった[オール・アイズ・オン・ミー]がリリースされた頃になると、トゥーパックは明らかに消耗しきっていた。トゥーパックがデス・ロウに負った借金は四百五十万ドルにも及んでいた。シュグが提供した資金や資産にしても、保釈金も含めてすべて、結局はトゥーパックの口座への貸し付けとなっていた。街の噂ではさらに数百万ドルがマフィアに流れているということだった。実際契約して間もなく「自分の気持ちの上ではデス・ロウは単なる途中の経由地に過ぎず、本当の目的は自分の会社[ユーサネイジア]を設立することにある」と事ある毎に口にしている。トゥーパックの事業は、貧しい子供たちを援助する基金の設立をはじめ、映画出演や、音楽とは無関係のプロジェクトをもっと増やすこと、さらに政治活動への進出までがその視野の中に置かれていた。公ではトゥーパックはシュグに忠実な顔を装った。「俺は戦士なんだ」と言いきり、自分が「若頭」でシュグが「頭領」なんだとさえ説明した。「シュグと俺はいつまでもビジネスを続けるだろう」と。その三日後、ワーナーへの移籍の感触を探り始めた。
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